腰痛ガイドライン


長谷川淳史 著
春秋社


 TMSジャパン代表である長谷川氏の著書。TMSとはTension Myositis Syndrome の略で直訳すると「緊張性筋炎症候群」、 ニューヨーク医科大学のサーノ博士の提唱している疼痛理論です(サーノ博士のヒーリング・バックペイン)。これに基づいた腰痛の治療法を展開している団体がTMSジャパンのようです。
 この本の副題は「根拠に基づく治療戦略」すなはち、EBMです。腰痛に関する 様々なエビデンスを例に出しながら、腰痛は「生物・心理・社会的疼痛症候群」であることを強調しています。それに基づいて我々はどうしたらよいかというのが、この本の骨子ですが、 いくつかの点で疑問に思うところがあります。これを鵜呑みにすると一般読者は誤解を招く場合があると思うので、 ここに述べさせてもらいます。

 はじめに


「さらには、ガイドラインに則した治療を行うことによって、治癒率と満足度の向上、ならびに再発率と医療費の低下が確認されているものです。」(Cページ)

 ガイドラインとは、ある治療法を選択するときの指針となるだけのものであって、ガイドラインに沿った治療をすれば良いというのは EBMとしての「テーラーメイド・メディシン」の概念にそぐわないものです。言いかえれば、患者一人ひとり全部違うわけですから、 すべて同じようなガイドラインが当てはまるはずはありません。ガイドラインにあてはまらない治療法を選択する場合でも、その治療法 が科学的根拠に沿ったものかを確認することがEBMなのです。



 第1章 神話の崩壊


 第一に、腰痛は「生物学的(物理的・構造的)損傷」というより、さまざまな要因によって生じる 「生物・心理・社会的疼痛症候群」だということ。(8ページ)

 このことは現在の整形外科では常識のことです。ただ問題なのは、筆者は「生物・心理・社会的疼痛症候群」にも 「生物」という要素が入っているのに、これをほぼ無視して「心理・社会的」という要素のみを強調している ことです。「サーノ博士のヒーリング・バックペイン」という本にも、「TMSは・・・診断を下すのは 医師、それも症状を肉体面と心理面双方からとらえられる医師でなくてはならない。心理学者は、患者の症状が 心理的なものに起因しているという点は判断できても、身体を診断する訓練を受けていないので、TMSを正確 に診断することはできない。」と述べています。

 第三に、安静が腰痛や下肢痛に効果があるという証拠はなく、安静にしているとかえって回復が遅れるということ(8ページ)

 誤解しないでほしいのは、ここでの「安静」とは「動くべきときに動かない」という意味であって、 「休息」とは違うということです。疲労が腰痛を招きうることは明らかですから、疲労を除くという 意味の「休息」は必要なはずです。

 ・・・腰痛は職業とも腰への物理的負担とも関係がなく・・・(12ページ)

 58ページに「農業、漁業、林業、・・・といった重労働の職歴」それから 「物を持ち上げる、思い物を取り扱う、・・・など、生体力学的影響を強く受ける仕事」 が腰痛のリスクを高めるイエローフラッグとして取り上げられているのと矛盾します。

 腰痛は何も高齢者特有の症状ではありません。小学生あたりから徐々に発症しはじめ、思春期までには成人と 同じくらいの発症率に達し、そのピークは35歳〜55歳にあるとされています。 (12ページ)

 「腰痛発症率のピークが35歳〜55歳にあるから、加齢は腰痛と関係ない。」と言いたげですが、高齢者は活動性が 下がってくるので腰痛も減ってくるのだと思います。たとえば80歳の人に40歳と同じ労働をしたらどうでしょう、 きっとあちこち痛くなるでしょう。それに、ひょっとしたらこのデータは「サーノ博士のヒーリング・バックペイン」 (7ページ)を参考にしたものかもしれませんが、あれは腰痛すべてではなくて、腰痛のうちTMSと診断されたものだけの データです。私の調べたデータでは30代〜70代まで、ほぼ同じ程度の腰痛発生率でした。

 そもそも腰痛の原因が老化現象にあるというのなら、国や地域によって11〜84パーセントと、生涯発症率 に八倍もの開きがあることの説明がつきません。とんだお門違いといえるでしょう。 

 国や地域が違えば、生活環境が異なるので腰痛の生涯発症率に差があって当然でしょう。腰痛の原因が老化現象 ではないということと結び付ける意図がわかりません。



 第2章 姿なき犯人


 進行性であるはずの脊柱管狭窄症の自然経過は概ね良好で・・・(26ページ)

 良好というのはどの程度のことを言うのでしょうか? おそらく著者はサーノ博士の「ヒーリング・バックペイン」 から引用しているのではないかと思いますが、日本人は欧米人に比べて脊柱管の狭い人が多いということですので、 アメリカのデータをそのまま持ってくるのはいかがなものかと思います。歩いている途中にしびれてきて5分以上 歩けない人という人が、たとえ良くなったとしても何の支障も無く歩けるようになることはまずありません。 このような人は日本人には結構多いのです。

 脊柱管の狭さと症状の程度との間には相関がありません。(26ページ)

 これはどの文献から引用しているのでしょうか? 仮に、脊柱管の直径が20mm以上であれば症状がほとんど 出ないものとしましょう。であれば、20mmの人も25mmの人も症状は同じです。しかし、15mmの人と10mmの人 がどちらか症状が強い可能性があるかというと、やはり10mmの人のはずです。比例しているわけでは無いですが、 相関が無いというのは極論です。これも日本人の症例に目を向けるべきです。

 (脊柱管狭窄症で)耐えがたい痛みが続く場合は手術の適応となりうる・・・(26ページ)

 「耐えがたい痛み」というのは神経根症状という脊柱管狭窄症の一つの症状ですが、手術の 適応となるのはこれではなくて、「下肢がしびれて数分しか歩けない」とか「おしっこが出にくい」 などの馬尾症状が強い場合に対してです。39〜40ページで、筆者も馬尾症候群を レッドフラッグに分類しているのですが、脊柱管狭窄症で馬尾症状が起こることを認識していないのでしょうか。



 第3章 トリアージ ― 治療の優先順位とは


 「非特異的腰痛」というのは・・・殿部、大腿部に痛みを感じる場合で、・・・(43ページ)
  「神経根症状」というのは・・・膝の下からつま先まで痛みが放散したり、・・・(44ページ)

 これだと、膝から上は非特定的腰痛、膝から下は神経根症状と言いきっています。たしかに、 そうであることが多いのですが、神経根によっては殿部、大腿部にも痛みを生じます。 



 第4章 危険因子 ― 何が腰痛をひきおこすのか


 ☆ 不適切な行動 1.・・・ 5.0〜10までのペインスケール(痛みの尺度)で、10を超えるほどの過剰な痛みを訴える。・・・ (57ページ)

 ペインスケールが10を超えると訴えるのは行動というより心理的な要素が大きいので、 別の項目 ”不適切な態度と信念”または”感情の問題”に分類したほうが良いように思います。 (大した問題ではないのでしょうが。) 



 第5章 新たなる戦略 ― 最先端の腰痛対策とは


 肉体的・物理的アドバイスには耳を貸してはいけません。いくつか例を挙げてみましょう。
 ☆ 重いものを持ってはいけない。  ☆ 腰を反らせてはいけない ・・・   (68〜69ページ)

 これもサーノ博士の著書を参考にして書かれた文章だと思いますが、これら全てが根拠のない噂話 というのではなくて、いくつかは一部の人には有効なアドバイスです。それには、キチンとした診断 でそれぞれの人に合わせたアドバイスが必要で、それこそがテーラーメイド・メディシンなのです。

 第四に、簡単な鎮痛法を試してみること。・・・、現実にはその効果はどれもドングリの背比べで、・・・(74ページ)

 確かに、腰痛治療の決定打というのはありませんが、質の良い悪いというのはあります。鎮痛法によって 将来の治癒経過が変わってくることもあります。「どれでも試してみたら」などという無責任なことを言わずに きちんと説明するか、それができなければ専門家に任せるということをハッキリ言ったほうが良いと思います。 へたな鎮痛法をするぐらいなら、まだ自然経過にゆだねた方がましな場合もあります。



 第6章 ターニングポイント ― あなたはどの道を選ぶのか


 図19、20、21(68〜69ページ)

 これらのグラフだけを見れば、手術というのはどれも意味のないものだと思ってしまいます。 このような図を出す場合には、「どんな症例に、誰がどんな手術をしたのか。」ということを 明確にしなければ、全く意味の無いものになってしまいます。 


 最後に、私個人の感想

 大体において、わたしは氏の意見に賛成するところが多くあります。特に、交通事故後や労災 における腰痛や頚部痛などにおいては、今までの治療法を根本から見直さなくてはと思います。

 しかし、いくら一般向けの本だからといって、ちょっといいかげんだと思うところもありました。 いくつか矛盾のある部分や、誤解している部分があります。だれか専門家に査読して頂いたのでしょうか? 大勢の読者を対象に出版するわけですから、それぐらいしたほうが良いと思います。 さらなる問題点は、本文で引用されているデータの出典がどれなのかほとんど分からない。 巻末には426もの文献が挙げてあるのに・・・・。ところで、長谷川氏はこれだけの文献を全部読んで、 この本を書き上げたのでしょうか? だとしたら、尊敬に値します。


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